軽い身のこなしで地面に着地した獄寺はベランダを見上げた。
「いいぞ、早くしろ」
「りょーかい、ですっ」
手招きされたハルはベランダから斜め下の出窓の庇に飛び降り、そこからくるんと宙返りをするようにして地面に降り立った。
手を差し伸べかけていた獄寺があっけにとられたように口を開けているのを見て、ハルは胸を張る。
「昔取った杵柄ってやつです」
「あぁ、お前って新体操やってたんだっけ。アホみたいにくるくる回ってたよな」
「なっ…!アホみたいとは何ですか !! 」
「そうだな、みたいじゃねェな。アホだもんな」 失礼な!と反論しかけたハルの言葉は最後まで続かなかった。
突然、獄寺がハルを壁に突き飛ばしたかと思ったら覆いかぶさってきたからだ。
「はっ、はひっ!な、な、何ですか!?」
動揺しかけたハルをあざ笑うかのように無粋な銃声が立て続けに鳴り響く。
「喋んなよ。舌噛むぞ」
短く告げると獄寺は懐から愛用のベレッタを取り出し、ハルを壁際にかばったままベランダに向けて撃った。
きっちり1発ずつでベランダにいた二人の敵を仕留めた獄寺は、ハルの手首を掴んで走り出した。
「だから、顧客名簿のコピーは諦めろって言ったんだよ!銃声がこんだけ鳴ればさすがにパーティー中でも追手がかかるぞ!」
「だって、裏帳簿ファイルの隣にご丁寧に名簿データのファイルまであったんですよ !? まさか同じフォルダに入ってるなんてもらっておかない手はないでしょう!」
「おかげでコピーにえらい時間がかかりましたケドね」
「うぅ、確かにまさかあそこで見回りの人が来るなんて想定外でした…。でも!獄寺さんがあの人を考えなしに蹴り飛ばすから花瓶が割れて、さらに人が来ちゃったんじゃないですか!」
「俺のせいかよ!?」
きゃんきゃんと言い合いをしながら二人は全速力で中庭を走り抜け、開いていた窓から室内に入る。
後ろからは複数の人間の声や足音が聞こえてきていた。
屋敷の見取り図を頭に入れてあった獄寺が先に立って、緊急時の脱出口にと決めておいた裏口へと向かう。
途中の厨房でデザートが用意されているのを見つけたハルが「いいなぁ」と声を上げる。
「ティラミス食べたかったのに〜」
「アホか、VIPのSPとして潜入してんのに客に出されたもんを食えるわけないだろうが。大体、予定通りだったらデザートが出る頃合で抜け出してたんだから、どっちにしろ食えねーよ!裏口はその先だ!」
緊張感のない言葉に律儀に突っ込みを入れつつハルを先に行かせると、獄寺は追っ手の足止めにと廊下に積んであった空のビールケースを蹴倒した。
派手な音がして誰かが転倒する音とイタリア語の罵声や怒号が飛び交う。
裏口のドアを開けようとしたところでハルは再び獄寺に突き飛ばされた。一瞬遅れてドアに銃弾がめりこみ、獄寺がすかさず応戦する。
その隙にハルはドアを開け外に飛び出ると、獄寺もあとから続いて出てきた。
「とりあえず追っ手をまくぞ!」
「はいっ!ローマ広場に出れば車もありますし!」
外に出るとさすがに追っ手は銃を撃ってはこなかった。しかし、足音と怒号はどんどん増えているようだった。
のどかな運河の流れとは正反対の自分たちの状況に、ハルは走りながら再び泣き言を呟いた。
「はひ〜、ハル本当はお仕事が終わったらヴェネツィア観光したかったんですよぉ〜」
「しょうがねぇだろうが。任務に不測の事態はつきもんだ……おいアホ女、伏せろっ!」
「へ?…はひっ、きゃあ!」
獄寺の唐突な指示に首を傾げる間もなく、道沿いのカフェバーらしき店の店員が脇から急に襲いかかってきたので、ハルは反射的に身をかがめた。
獄寺は空振りしてたたらを踏んだ襲撃者に全体重をのせた右ストレートを食らわせる。
もんどり打って店内へと吹っ飛んだ男を尻目に獄寺は道端のオープンカフェスペースのテーブルや椅子を投げ飛ばしたり蹴飛ばしたりした。
追っ手たちがそれらに足をとられているのを呆然と見ていたハルは「バカ!ぼーっとすんな、行くぞ!」という獄寺の声に我に返って彼の後を追いかけた。
「いいんですか !? 一般の人に迷惑をかけて…」
「いーんだよ!あの店は奴らのシマだからな!あの店員も身内だろ」
「なるほど…それにしても、何か追いかけてくる人増えてませんか?」
「しつこい奴らだな。あれじゃ女にモテねーぞ」
「そういう問題じゃ…」
少し広めの通りに差し掛かった二人の目の前を添乗員に連れられてぞろぞろと歩くアジア人らしき観光客の団体が横切る。獄寺とハルは顔を見合わせて頷き合うと、あえてその集団の中へ飛び込んだ。
追っ手たちは彼らに進路を塞がれる形になって右往左往している。しかも、アジア人はみな同じ顔に見えるのか、完全にターゲットの姿を見失ってしまったようだ。
しばらく観光客にまぎれて歩いた獄寺とハルは頃合いを見て列から離れて横道に入る。
ヴェネツィアの街は迷路のように路地が入り組んでいる。そこを追っ手らしき人間の目をかわしながら二人はメインストリートを目指すが、敵方も人海戦術で彼らを探しているようだった。
建物の陰から様子を窺いながら獄寺が小さく舌打ちをした。
「ホントにしつけーな…埒が明かねェ」
後ろから追っ手の気配を感じてハルが獄寺の袖を引く。
「獄寺さん、このままだと見つかっちゃいます。あそこで少しほとぼりを冷ましませんか」
ハルの指差した先には使っていないゴンドラが何艘か連なって運河に係留されていた。
「しょうがねぇな。暗くなってから移動するか」
相棒の案に同意すると、通りに追っ手がいないことを確認して獄寺はゴンドラに飛び降りた。彼に続いてハルもゴンドラに飛び乗る。 ちょうど橋の下になっているゴンドラまで移動すると、二人は大きく息を吐いて床に座り込んだ。
ゴンドラには前後にある座席にカバーが掛けられており、それが通りからの目隠しになる。一時の休息ではあったが、獄寺もハルも緊張を解いた。
本部にメールで連絡を入れながら獄寺がぼやく。
「ったく、散々だぜ。ま、外で撃たれないだけ良かったけどよ」
「全くです。よっぽど見られちゃ困る内容なんでしょうね」
「お前、USBはちゃんと持ってるんだろうな。どっかで落としたとかは無しだぞ」
「ノープロブレムです!ちゃんと内ポケットに入ってますから」
獄寺の方を向いたハルは彼のスーツの肩がほつれていることに気付く。
「はひ、獄寺さん。スーツが破れてますよ。どっかで引っ掛けたんですかね」
「あ?ちげーよ。屋敷で撃たれた時にかすっただけだ。にしても、また買い直しかよ、勘弁してくれ」
「はひっ !? 大丈夫ですか?ケガは ?! 」
軽い調子で撃たれたことを話す獄寺に対して、ハルは青ざめて彼に詰め寄った。
「かすり傷だろ。大したことねーよ」
ハルの方を見ることなく獄寺は告げる。無理やり服を脱がせて確認するわけにもいかず、ハルは心配そうな顔つきのまま座り直して沈黙した。
思えば今日は彼に助けてもらってばかりだった。ハルだってそれなりに修羅場はくぐってきていたが、やはり獄寺は場数が違う。
今日のこの顛末だって、自分が無理を押し通したせいなのに、そのうえケガまでさせてしまった。
彼が身を挺して庇ってくれることについつい淡いときめきを覚えていた自分を恥ずかしく思って、ハルはため息をついた。
分かっている。彼は別にハル自身を守っていたのではない。ハルが持っているデータを守っていたのだ。
ちらりと獄寺を窺えば、彼は煙草をくわえて火をつけかけて、今の状況を思い出したのか忌々しげに煙草を箱に戻している。
美しい水の都で名物のゴンドラに想い人と一緒に乗っている。普通ならば、これほどロマンチックな状況はないだろう。
しかし、現実の自分は色気も素っ気もないパンツスーツで、ほんの10cm先にいる彼との距離を縮められないでいる。
「おい、アホ女。お前の方は大丈夫か?ケガとかしてねーか?」
体育座りで小さく丸まったハルの様子を訝しんだのか、獄寺が声をかけてきた。
「大丈夫です」
それだけ答えた。迷惑かけてすみません、などと謝ることはしない。今は任務中であり、仕事をしているのだから相棒同士がフォローし合うのは当たり前のこと。
ハルはあくまでも獄寺と対等の関係でいたかった。庇ってもらったことに謝ったり礼を言ったりすれば、守ってもらうことをよしとするようで、そんな女々しい人間にはなりたくない。
それでも、今のような気遣いを受けると、つい胸が高鳴ってしまう。
獄寺との付き合いも中学の頃からだからもう随分になる。数年前から同僚として一緒に仕事をするようになって、彼がその表面的な言動にそぐわない優しさと繊細さを持ち合わせていることに気付いた。
いや、本当は学生の頃から何となく解っていたことだったと思う。
どちらにしろ彼の意外な内面をはっきりと意識するようになってから、恋に落ちるまではあっという間だった。
獄寺の方は相変わらずで、ハルのことをアホ呼ばわりし、からかい、何かにつけて噛み付いてくる。その一方で、仕事では冷静に的確に進めつつ、さりげなくフォローしてくれるものだから、余計たちが悪いとも言える。
今では彼の優しさが特別なのかそうでないのかよく分からなくなっていた。
うじうじと湿っぽい自分の考えが嫌で、気持ちを切り替えるためにハルは獄寺に話しかける。
「獄寺さん、知ってますか?ゴンドラに乗って橋の下をくぐる時に目をつぶって願い事をすると叶うらしいですよ」
「あぁ?何だそりゃ、初耳だぞ」
「だって、前に夢の国でゴンドラに乗ったときに漕ぎ手のお兄さんが教えてくれましたよ」
「へぇ…でもそれってネズミ王国限定の話じゃねェの?」
「はひ、そうなんですかね?でも、こんな素敵な街でゴンドラに乗っていたら願いも叶いそうじゃないですか」
「そうかぁ?よく分かんね」
「もう…デリカシーないんだから。せっかく夕日の沈みかけた運河でゴンドラに乗っているのに、少しはもののあはれってやつを理解してくださいよ」
苦笑しながら言えば、獄寺はゴンドラの縁にもたれながら嘯いた。
「アホ。敵から逃げてる途中でもののあはれもクソもあるか。そら、プライベートで女と2人で乗ってたら口説くのにもってこいだろうけどな」
後半の言葉を聞いて、ハルは思わず獄寺を凝視した。
「…意外です。獄寺さんでも一応、ロマンチックなシチュエーションを意識する気持ちがあるんですね。まぁ、でも獄寺さんの場合はもっと紳士的な態度を心掛けないとダメですよ」
かろうじて軽口を返したが、胸の中では心臓がばくばくと暴れ回っていた。
それは自分が相手でもそう思ってくれるのだろうか。それとも自分は対象外だからこんな話をするのか。
「お前な、俺にだってそれぐらいのことはできんだよ。試してみるか?」
「はひ?何をバカなことを…。大体、今はそういう状況じゃ――」
冗談として流そうとしたハルに対して、獄寺は急に真剣な顔になった。
「ハル……」
低い声で名前を呼ばれて体が硬直する。手が顔へと伸ばされて思わずぎゅっと目をつぶった。
次の瞬間、後頭部に手が添えられてぐいと引き寄せられる。
「はひっ、ごごご獄寺さん…っ!ハルをからかうのも――」
じたばたともがいたら、さらに力を強められる。シッ、と耳元で声がして頭が真っ白になりかける。
「静かにしろ…追っ手だ」
「は、ひ……?」
低く囁かれた言葉の意味を理解したハルはもがくのをやめて耳をそばだてた。
『どこへ行ったんだ…』
『ローマ広場に人はやったか』
『一応、駐車場の出入り口に人を貼り付けてます』
などと言い交わすイタリア語が橋のたもとの方から近づいてくる。どうやら追っ手たちが話しながらハルたちが身を潜めている橋を渡ろうとしているようだ。
よくよく考えてみればハルは床に押さえつけられるような姿勢で、その上から獄寺が覆い被さっている。
ロマンチックさには程遠い自らの体勢と直前の己の勘違いに情けなくなりつつも、ハルはじっと身を縮めて敵が通り過ぎるのを待った。
顔を伏せていて助かった。真っ赤になったそれを獄寺に気付かれないで済む。
追っ手たちはまさか自分の足元に獲物が隠れているとは思いもしないようで、しだいに足音と話し声は遠ざかっていく。
それでもまだ気は抜けない。緊張から呼吸が浅くなった時、ハルの肩を押さえていた獄寺の手にほんの少しだけ力がこもる。
そこから彼の体温が伝わってきて、不思議と安堵した。
秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったものだ。あっという間に夕日は水平線の彼方へと飲み込まれていってしまう。
あたりが薄暗くなってきた頃、ようやく獄寺が身を起こす。
「わり…」と呟いた彼は、まるで思わずといった様子でハルから手を離した。
「…いえ、見つからなくてよかったです」
ハルが顔を上げると、獄寺はふいと顔をそらした。そのまま彼は何も言わない。
ただでさえ橋の下で薄暗いのに、日が沈んで隣の人の顔も判らぬ黄昏時――。
ハルからは獄寺の表情が読み取れなかった。
「あの…獄寺さん?」
不安げに彼の名前を呼ぶと、獄寺はもそりと身動きして座り直した。
「おい、アホ女。目ェつぶれ」
「はひ?急に何ですか」
「いーから。橋の下で願い事すると叶うんだろ。無事に逃げられますようにとか見つかりませんようにとか念じろ」
「なるほど!そうですね、せっかくですからお願いしましょう!」
ハルはお祈りするように両手を組むと目を閉じた。
無事に本部へ帰れますように。できれば少しでいいのでヴェネツィア観光ができますように。せっかくだから美味しいスイーツが食べられますように。あと…獄寺さんとの仲が進展しますように。
だんだんと今の状況からかけ離れている個人的な願いばかりになってしまったが、この際ついでだと言い訳をして、ハルはぶつぶつと心の中で願い事を唱えた。
ぎし、と船底がきしむ音がした。
次いで、ふわと唇に何かが押し当てられた。
柔らかくて温かいそれに驚いて目を開ければ、獄寺が至近距離でハルの顔を覗き込んでいた。
「お前、変な顔してんな」
ぷっと吹き出しながら獄寺が言う。
「なっ… !? ごっ、獄寺さん、い、いま何を…変なことしたでしょう !!? 」
「何もしてねーよ。そろそろ行くか」
「ごまかさないでください!今キッ……キス、みたいな不埒なことをしたでしょ !! 」
「みたいなって具体的に自分で言ってるじゃねェか」と笑いながら獄寺は立ち上がった。
「オイ、どっかのショップでTシャツか何か買うぞ。観光客に紛れて水上バスで戻る。車はあとで人に取りに来させるしかねェな」
「ハルの質問に答えてくださいっ。な、な、何でこんなこと…ッ、まさかハルの心を読んだんですか !? 」
「はぁ?何だよお前、さっき不埒な願い事をしてたのか?この切迫した状態で?信じらんねー」
「そんなっ、違いますッッ!」
「うるせーなぁ、気付かれるだろうが。早く行くぞ」
ハルの必死の釈明などどこ吹く風で獄寺は隣のゴンドラに移動し始める。置いて行かれてはかなわないとハルも慌てて後を追った。
先に陸に上がった獄寺が手を差し伸べてくるので、仕方なくその手を借りてゴンドラから降りる。
と、獄寺はハルの手を自らの口元に引き寄せて口づける真似事をした。
ハヒッ…!と引きつった悲鳴を上げるハルを見下ろすと、獄寺はにやりと笑う。
「この水の都から生きて出られたら、さっきのお前の質問に答えてやるよ。理由の説明付きでな」
ハルはぱくぱくと口を開け閉めするのみで何も返事ができなかった。
くるりと回れ右して歩き出した獄寺について行きながら、「獄寺さんのアホ」とぼそりと悪態をついた。
「あぁ?」と獄寺が凶悪な顔で振り向いてくる。
「何でもありません。獄寺さんの頭の色も目立つから帽子も買った方がいいと思います。ハルが超ダサい観光客らしいものを選んで差し上げますね」
「頼んでねぇよ!」
「獄寺さん、うるさいですよ。見つかったらどうするんですか」
めっと幼子のようにたしなめられた獄寺は仏頂面で黙り込んだ。その先に立ってハルは宵の雰囲気に変わり始めた水の都を進んでいく。
何としてでも生きて帰らねばと固く決意して。
彼の今さっきの行為の真意を聞くまでは死んでも死にきれない。


水の都より愛をこめて


理由を聞いたら違う意味で死んでしまうかもしれないけれど





update : 2014.06.14